通信技手の歩いた近代.html
2009-03-20


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通信技手の歩いた近代

「歴史」というのを、一人の人物の歩みで振り返る試みは、歴史が人物に寄り添って見えるだけに、より親密な感じがする。筆者は冒頭「旅じたく」という序章で「いつの時代にも誰知らず置き忘れられた無数の人生が存在する。この物語はそんな人生のひとつを拾いあげたものである」としている。たまたま寄せられた、一人の老人が書き残した日記をもとに、時代を追っている。「通信技手」というのは、「電信」に関わった明治時代の官吏の端に繋がる職種である。 本のDBの紹介――幕末土佐で下級士族の子に生まれた男が、文明開化で沸く東京で電信技術を習得、明治政府による人民管理・治安維持の手段となった電信機を操作。読み書きそろばんと英語を武器に淡々と生きる様を通し、明治・大正の時代を描く。

主人公は万延元年(1860)6月16日、土佐国高知の城下町に生まれた。その3ヵ月前、幕府大老の井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩浪士ら18人に襲撃され落命している。明治という新しい時代が到来するまで8年。「そして、封建遺制の一掃を画した維新の大変革を経て、富国強兵・殖産興業を合言葉に産業資本主義と帝国主義の道をひた走った極東の小国にあって、かれは近代化の波濤で危うく揺れ動きながら、家族との慎ましい生活を守ろうと悪戦苦闘する。やがて70年を生き抜いたかれが、家族に看取られながら死出の旅につくのは昭和6(1931)年11月25日。2ヶ月前の9月18日夜半、満州(現中国東北部)に駐留する関東軍(日露戦争後に関東州と南満州鉄道沿線に配置された日本陸軍部隊)が柳条湖の満州鉄道線路を恋に爆破、これを中国軍の仕業と宣伝し、独断で満州占領の軍事行動を起こしていた」(旅じだく)

主人公は山崎養麿。彼が生まれた「土佐の幕末」の情勢から書き始める。坂本竜馬であり吉田東洋、武市半平太であり、山内容堂の時代である。確かに土佐藩というのは、維新後、「官軍」の端っこにあるような顔をしながら、藩の足元では勤皇佐幕のせめぎあいは他藩と同様であった。それが「維新」前後の空気であり、風であったのだろう。
身分は低いといいながら、武士という身分のサラリーマンが、急に会社がなくなり、全員解雇されたときに、どのようにして食っていくことができるのか、というテーマは現在でも身近な問題だ。主人公は、英語を学んでいた。これが身を救う。はじめ親戚を頼って神戸の鉄道局の給仕に。そして、そのあと15歳のとき「官費生であり、工部省吏員になれる」という魅力から、ちょうど募集が始まった電信修技学校の生徒になる。学校は東京と大阪に設置されたが、すぐに養麿が通い始めた大阪の学校は、東京に吸収合併され、住まいも東京へと移る。

「明治政府にとって<文明開化>の象徴的な意味とは、ひとえに国家全域に鉄道網と電信網が配備された近代的な国土の実現にほかならなかった。かつて浦賀に来航して徳川幕府に開国を迫ったペリー艦隊が、西洋文明の粋として<半開>日本人にみせつけて衝撃を与えたものこそ、蒸気機関車の模型とモールス式電信機だった」と時代背景を説明しているが、「電信」というインフラに明治政府は異常なほどの執念を燃やし、整備をいそいでいることは、改めて思う。いまだに「電気」を送っている柱以外でも「電信柱」と呼称するのは、やはりその名残であるようだ。

明治8年10月に修技学校で1級修技生となり、12月にわが国の電信局の第1号局である東京・築地局に配属される。明治も10年になると西南戦争が起き、それ以外のあちらこちらでも物騒な動きが報じられる。それに伴って、主人公も出張命令や転勤の旅を繰り返すことになる。その地は、神戸、高松、福島、仙台、臨時局が夏だけ開かれた日光にも行った。東京の空気は悪く子どもが病気になったりして、大津事件の直後には大津に移ったりする。


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